住めば都の風が吹く

楽しいことの日記です

あの日たしかにそこにあったもの、見えたもの——『aftersun/アフターサン』を見て

映画『aftersun/アフターサン』がよかったよ〜! というか話と見て思い出した自分の話です。

 

 父との関係が悪化してかなりの時間が経つ。不仲というのでもない。必要に迫られたなら会うし、話もする。しかし良好な間柄といのも違う。絶対に。

 そもそも関係と呼べるようなものが私たちの間にあるのかもわからない。長いことメンタルヘルスの問題で苦しんでいた父はそれを抑え込むことができず、放出させることで他者の理解を得ようとした。父と暮らしていた当時の私はまだ10代で、そんなことできるはずがなかった。自分の人生や寛解しない持病を持て余していたから。結局は父と同じだったのだ。

 そんな風に自分のことばかり考えている人と人の間に関係なんてものはあるのだろうか。

 

公式サイトのつくりがこっていて面白いのでぜひ見てください。https://https://happinet-phantom.com/aftersun/index.html

 

パンフレットも素敵

https://https://twitter.com/oshimaidea/status/1662054968168415232?s=46

 

 

『アフターサン』ソフィという女性が、若くして亡くなった父と幼い時分に過ごした休暇の記憶を辿る物語である。

 父子が兄妹に見間違えられるほど年若い父カラムは、夏季休暇中のソフィアを気前よくトルコ旅行へ誘う。ツアーに参加したりゴージャスな飲み物を差し出したりしながら、食事は食い逃げる、少年じみた奔放な父。

 故郷のスコットランドを出て何をしているのか? どんな働きぶちを見つけたのか? 子供の頃どんな将来を思い描いていたのか?

 この父親は幼い娘に丁寧に日焼け止めを塗ってやりながらも、その問いにだんまりを決め込む。

 優しくいかにも善人らしい面と、ぐらついた危うく仄暗い面が共存していること以外、カラムのことは徹底的に明かされない。映像から見て取れる以上のことは。そう。見てとるのだ。私たちが。よく目を凝らして耳を澄まして。

 柔らかで鮮やかな色合いの過去を基軸に進んでいく映像は、きっと11歳という年相応の幼さとおしゃまな表情を併せ持ったソフィアの眼差し。

 しかし映画はカラムの優しく愛情深い仕草の向こう側にある欠点や、精神的な悩みを抱えひっそり苦悩する姿をも映し出す。記憶の中の彼と同じ年頃になったソフィアがありし夏の日焼けあとに思いを馳せているのだ。

 

 とにかく映像が美しい。そのうえひと夏の記録としてカラムがソフィアに貸し与えたビデオカメラによるざらついた映像が挿入されることによって、見る者の胸の奥に眠る懐かしさを引きずり出す。父親との心あたたまる美しい出来事の有無に関わらず。

 そして、父親であるカラムの愛情と表裏一体の身勝手さなんかも見るものの心をえぐる。

 起こってからでは遅いからと真剣な顔で不審者に腕を掴まれた時の払い方を指南したかと思えば、意に沿わないことをした娘を夜のリゾートで置き去りにしてしまう。

 

 物語の大部分は父を愛しているソフィの視点だから、そこにいるカラムはどれだけ欠点があっても娘を愛するという点においてブレがない。宿のベッドは大きい方を娘に譲り、スキューバダイビングの予約をとり、暴漢に襲われないよう護身術を教え込み、ともに泳ぎともに笑いともに食事をしともに眠る。

 愛情深いカラムの姿に「これは自分に宛てられた物語ではないな」と感じて気持ちが閉じてしまうひともいるかもしれないけれど、触れようとしてもかなわない、もう断絶されてしまったものとの間に横たわる何かが時を超えて最後にちかりとひらめくこの映画は、「あなたの話」ではなくても、あなたにも届く映画だと思う。

『アフターサン』は私の映画でもなかった。しかし見てよかったとしみじみ感じながらこれを書いている。

 

 

 

 映画館を出て帰り道に私は私の父を思い出した。ソフィにとってカラムにまつわる記憶は海や波間だけれど、私にとっては雪に覆われた山々だ。

 長野。真冬の白馬。スキー場に私たちの他どんな酔狂な客がいるのかというほどの強風としっとりと重たい雪の日だった。

 先導すると言って斜面を滑り降りた父は当然白い吹雪に吸い込まれた。

「どこー」

 と力いっぱい尋ねると、右も左もない真っ白の世界のどこかから、

「大丈夫!」

 と父の声がした。自分がどこにいるかもわからないのに大丈夫なわけはなかったが、大丈夫だと言われたから私はスキーを漕ぎ出した。雪は水気をたっぷりと含んで重く、ストックも板も沈み込むようだった。それでも私は進んだ。まっすぐまっすぐ。その先に父はいた。